占星学と心の探求

占星学の心理的・エネルギー的・構造的視点

占星学で見る三種の神器 (1)

Posted by astrologia on  

jingi_01.jpg○八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
○八咫鏡(やたのかがみ)
○天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)

天孫降臨の時、ニニギノミコトが天照大神から授けられた三種の神器。それは皇室における正統な証となり、支配者たる帝(天皇)の権威の象徴になりました。その神秘性から「なにやらスゴいパワーが秘められてるのでは…?」と、多くの人の関心を引いてきたわけです。

しかし、大抵こういうものは「物」そのものにパワーがあるのではなく、あくまで象徴として「それが意味している内容」にこそパワーがあり、そちらの方が本来の姿だと私は思っています。そこでちょっと頭の体操も兼ね、占星学的に三種の神器を解釈してみたいと思います。

(あくまで私の考えですが…)


三種の神器は神から与えられた宝物で、そこには地上を治める王としてのパワーが秘められている。象徴的に解釈すれば、「地上を治める」とは自分の人生&世界を思い通りに操ることで、「王(天皇)」とは自分がその支配者になるということではないでしょうか…。

つまり、この世の仕組み・物事の仕組み・人生の仕組みを操るパワー。それを自分が行えるようになることで、文字通り「自分の人生を自在にコントロールできる」ようになる。それが現人神として表される「王のイメージ」であり、三種の神器はそのための知識を隠喩的に表現したものではないか…と。


『八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)』

勾玉は見ても分かるように、明らかに太極図の半分部分です。おそらく、その本質は「万物を成り立たたせている陰と陽の関係性」のことであり、ネガティブとポジティブは相通じるものがある…という知識なのでしょう。この2つには相互変換性があり、ネガティブをポジティブに変えることもできれば、ポジティブをネガティブに変えることもできる…という、実際的知識のことだと思います。

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勾玉に象徴される「陰陽図」を意識すれば、自分の人生で起こっているネガティブだと思うものもポジティブに変換することができ、集団や組織で起こっているネガティブなものもポジティブに変えることができる。私たちは闇と光を区別することなく、自在に変換できるのだ…と。

占星学的に言えば、これは6(乙女座)の意識だと私は思います。すべてをバランスとして見て、そこでの調和に意識を向ける。内側で起こることも外側で起こることも、両者はまったく同じであり、だとすれば、自分の心(内側)を変えれば、世界&出来事(外側)を変えることができる。

善も悪も、光も闇も、単なるエネルギーの方向性の違いにすぎず、自らの意識を使ってこれを統合する…と。そうすることによって、人は光を作ることもできれば闇を作ることもできる。己の人生、己の世界、己の出来事を自在に支配するパワーです。

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『八咫鏡(やたのかがみ)』

鏡はちょっと難しいものだと思います。それは鏡が持った性質を考えると良く分かります。鏡には人を映しだす機能がありますが、その映る像は左右が逆です。これは実際にリアル世界で見る姿とは違っています。

例えば、違う人間を向きあわせた時、相手が見ているわたしの姿は鏡とは違います。自分で自分の姿を鏡に映した姿と、他者が面と向かって見ている自分(わたし)の姿は、まったく異なるのです。

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これが何を意味するかは明白で、「自分が見ている世界」と「他人が見ている世界」はまったく違う…ということです。言い換えれば、「自分(わたし)は他人から見るとこういう風に思われてるだろう…と考える世界」と、「他人が実際にわたしを見て、考えている世界」は、似ているようでいて実はまったく異なる…ということ。

鏡は、この大いなる違いを教えてくれる道具なのです。つまり、鏡という象徴物を使うことで世界は2つに分かれる(正確には4つ)と。

1.わたしが想像している、他人から見たわたし像。
2.他人が実際に見ている、わたし像。

3.わたしが実際に感じている、主観的世界。
4.他人が想像している、わたしから見た他人像。

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(ラカンのシェーマL)


占星学的に言えば、これは7(天秤座)の意識だと私は思います。わたしとあなたは同じ1つの世界にいるようでいて、実はまったく別々の世界に存在している。同じ世界だと思ってるのは錯覚で、相手に対して想像する姿は「わたしが思ってる姿」と「あなたが思ってる姿」とで別物なのだ…と。

だからこそ、自分の目で見るのではなく、相手自身の目で見る必要がある…。相手が見ている世界・思ってる世界・考えてること・感じてることなどを、相手の身になって(自分の勝手な想像ではなく)見る必要がある。

ここから生まれるのが『愛』で、それぞれの世界が別物だと知った上で、それを理解し合おうと努力していくエネルギーだと思うのです。違うのは当然、違っていて結構、それは正しいことなのだと。自分と同じであってくれることを願うのではなく、その違いを別々の世界として受け入れてあっていこう。


考えの違い、意見の違い、行動の違い、価値観の違い。

違いは誤解を生み、衝突を起こさせるものですが、それは「それぞれの世界はまったく別個の存在」という真実を、理解していないところから生まれるのではないでしょうか…。鏡は「違っていいんだよ…。違うものなんだよ」と、それを受け入れることを求める象徴イメージだと思うのです。

そして、その違いがほんのちょっとの差(=左右逆)であることを理解し、知的にその関係性を思考していくことではないでしょうか…。「自他の関係性の理解」から本当の意味での愛が生まれる―。そこには当然、違いはあっても衝突や誤解というものはありません。お互いがお互いの違いを真に受け入れ合っているからです。